(11)


 ボクが、この町に二年前住みついた時、この町で空を飛ぶ人は一人もいなかった。山は十年前に、ハング用として開発されたもので、最盛期には町からかなりの賞金を出したレースも開催され、ラ・ムエッティの荒井さんが優勝して、その賞金でショップをつくった(?)という話が、ここでは伝説になっている。この一年で、それまで来山者が500名程度だったのが4000名までに増えている。これは何かと言えば、町の人達が空を飛び始めた事で、エリアを訪れてくれるフライヤーが気持ち良くフライト出来るようになった事にあると思う。

 ガソリンスタンド、食堂、工務店、板金屋、材木店、酒屋、農協、役場、中学校の先生等、それはいろいろな職種のこの町の人達を、ボクはせっせと育ててマウントイワヤから次々に大空へとリリースしていった。働く時間が割と自由になる自由業の連中の風読みは、貴重な時間の合間をぬって飛ぶだけに正確無比である。いい風が吹いていると見ると、すぐに行動に移る。ガソリンスタンドの客足が少ない時に、サッと山に登り、パッと飛ぶ。食堂のお昼時前に山に登り、すぐに飛ぶが、運悪く(?)サーマルにヒットしてしまい1500mも上昇してしまうとかわいそうである。いくら上昇していても、11時45分になるとあっという間に下降し、パラをかついでダーッと仕事に戻って行く。彼らのお父さんが言うには、パラをするようになってからさらに良く働くようになった、と話してくれる。彼らの年間フライト本数は300本近くである。町の人が空を飛ぶようになってから、町にスカイスポーツクラブも出来、それまでほとんど無関心だったテイクオフとランディング場の整備をボランティアでやってくれている。さらに初心者、中級者の講習場を作るまでに至った。パラを飛ぶ以前のヒマな時はパチンコ!だって言うから、ライフスタイルはすごい変化だ。

 町の人すべてが、このスポーツに協力的だったわけでなく、ランディングに吹き流しを立てれば、いつの間にか抜かれ、立てれば抜くといった変なオジサンもいたり、たまに一杯飲みに行けば、「ヨソ者が来て商売しやがって」と絡んでくるヨッパライもいたりして、その度に、長年この山をスカイスポーツ用に整備してきた商工会のパンチパーマの源司さんが「すまん、すまん」と顔に似合わず優しい言葉をかけてくれる。

 ボクはたまたまこの山に漂着して住みついて、この二年間頑張ってきたけど、このぐらいの山と町は日本国中どこにでもあると思う。そして、ボクぐらいの情熱と根性を持って空を飛んでいる方もいっぱいいると思う。これからパラグライダーをより安全に楽しく普及させるには、パラ専用エリアの開発が一番。スキー場はスキーをするために作られたエリアで、スキー場に頼っていてはこれ以上の発展は望めないだろう。

 マウントイワヤのテイクオフ、真下には中学校があり、その窓から見える森の上は、高度差と安全面からボクのアクロバチックフライトの練習ゾーンだ。ボクは年を忘れて、ロックンロールのリズムの乗りでギンギンにやる。その時の翼はHPが最高にごきげん。校舎の上をパラが飛び回るせいで、先生も生徒もパラで飛ぶ。風の良い日の授業は、先生も生徒も文字通り、うわの空になってしまうのではと心配する。講習をしていると、トランシーバーに「タックさん、今から講習に行ってもいいですか?」「オッ!上総介(カズサノスケ、本名です)今どこや。」「今、ホームルームが終わりました。」「ん?…よし、すぐ来い。」10分もするとパラをしょって自転車に乗った中学生どもが駆けつけ、30分もすると先生もやってくる。中学校の生徒も先生も命がけで空を飛ぶ。

 パラグライダー、本当に素晴らしいですね。パラ色のスポーツになることを願って、風のエッセイを終わります。

(月刊パラワールド93年3月号より転載)

ランディングで
ランディングでの立ち上げ

[前へ] [ホームへ]    

[No.1] [No.2] [No.3] [No.4] [No.5] [No.6] [No.7] [No.8] [No.9] [No.10] [No.11]