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 1年続いた風のエッセイも、ラストワンとなりました。サーマルコンディションの良い日の原稿締切りは、とてもつらいものがあり、上空を乱舞している仲間のパラを見上げながら机に座ることは、パラ地獄となる。それなら、もっと前に書いておけば良いのだが、47歳になった今も、夏休みの宿題を残り1日でやった子供の頃と、何ら変わっていない。1年もエッセイを書いてきて今だ、エッセイって何だろうと思いながら書いている。時には、自分の書いた文章にうっとりし、直旗(ボクのオヤジの名前)賞(!?)でも取れる才能があるのではと誇大妄想したり、ちっとも文章が思い浮かばない時は気晴らしにパラで一飛びして帰ると、留守番のコタックが「原稿まだかーって電話あったで」と、できの悪いオヤジをせきたてる。そんな時は毅然とした態度で「まだ創作意欲が湧かん」とほえる。

 なぜボクが書くことになったかの因果関係は、こうだ。ボクは20代、30代をハンググライダー、フリースタイルスキー、スピードスキー等、いわゆるニュースポーツのパイオニアとして活躍というほどでもないが、これらのスポーツと時には命がけで遊んできた。このことに関心を持ったイミダスが、アクションスポーツの執筆を依頼してきて、イミダスを見た情報紙がエッセイを頼んできて、それを見てしまったパラワールドが電話してきたという、長い長い由があったのでした。若い頃から、好きなことをし続けながら生きて行けたら何と素晴らしいことかと飛び込んだスキー界。師匠三浦プロのエベレスト滑降を目前に、スキーで生きていく夢はこっぱみじんにくだけ散った24歳。翌年出会ったハングに、今のスカイスポーツの隆盛のひらめきを感じ、近い将来、きっと空の時代がくると信じて飛んだヒマラヤ山脈。37歳。1984年。あの偉大な探検家、植村直巳さんが、マッキンレーで消えた年だった。僕は想った。冒険はもうやめよう。続けたら、いずれ命を落とす。自分なりに精一杯がんばったのて悔いはない。それから始まったパラグライダースクールは、情熱のなくなったスキーを続けながらの二足のワラジだった。3年前の出来事だった。

 ついに決断の時が来た。それまでは、春夏秋はパラグライダー、冬はスキーという中途半端な生活だった。そんなある日、スキーで契約していた会社から呼び出され、「もう年だし、スキーのチューンナップショップでもやるか」と、提案してきた。生活のこともあるし言われるままに、ショップも見つけ、マシンも入れ、明日からという夜、何かやり残したこと大きな仕事が他にあることに気づいた。空だ。空の仕事だ。中途半端な人生なら、パラ色の人生に賭けてみよう。

 翌日、3社ほどあったスキーメーカーの契約をすべて切った。残されたものはパラグライダーしかない。もう、後には戻れない。お金は空を見上げて稼ぎ出さなくてはならない。同じ空を見上げるのでも、いつ降るかわからない雪を待っているより、はるかにましというものだ。当時、キャンプをしながら続けていたパラグライダースクールも、11月末ともなると冷え込んできて、朝、目をさますと、ミゾレがビショビショとテントに降ってきて、湿っぽくて寒い。「冬のエベレストは人の住む所じゃないよ」と聞いたことがあるが、極地と違って、人里近いと妙に寒いのである。今年もこれで終りかと考えると、情けなくなる。スリーピングバッグの中でガタガタ震えながら、ふと思った。冬になるとできなくなる、スキー場でのパラグライダースクールとも、サヨナラしよう。それまで時々練習に通っていた岩屋山のふもとに家を借りて、キャンプ道具だけでの生活を始めた。テントから屋根の下へ、生活レベルはアップしたのだ。最初に借りた家は朝早くからニワトリが元気良すぎて鳴くので、1週間で今の家に引っ越した。広い家は寒々としていたのでコタツを買った。文化的なものと言えばコタツぐらいで、冬の岩屋山の風に毎日のようにアタックした。あまりの生活を見かねたTAKチームの朝谷君が、大阪の電気屋さんの流通センターへ行き、雨ざらしで捨ててある、テレビ、洗濯機、レンジ、ソウジ機などを、恵まれない子供にあげるからと言って、車に山積して運んでくれたおかげで、急に文化的な家となってしまった。それでも3年間、一緒にキャンプして育ったTAKチームの連中の中には、その頃が良かったと、家のわきにテントをはる者もいる。こうして始まったマウント・イワヤのパラ人生。

 パラ専用エリアを開発していったお話は、最終回にいたします。風のエッセイ、ラストワン!

(月刊パラワールド93年2月号より転載)


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