世界選手権出場レポート (99/08/10)
<出会い>
1987年9月、初めてパラグライダーに出会った。
生意気かもしれないが、幼少時代から「冒険野郎の父」がやることの関心を持っていて、パラグライダーをやるまでに「スキー(近年、スノーボード)」「スケートボード」「BMX(のちに,マウンテンバイク)」「ウインドサーフィン」、、、と、今思えば父にたくさんの遊びを教えてもらい、たくさんの出会いを提供してもらった。なかでも「スキー」は、当時プロスキーヤーだった父に色々教わった。しかし、いつまでたっても上手にならない。
ある日、父が「スキーうまくなるためには、年中雪がある所にいないといけない。。関西の雪の少ない所にいてもダメだ。」と、はっきり言った。と、いうことは、スキーは上手くならないのか、、、父が、1984年にハンググライダーでヒマラヤを飛び、次の目標を探していた頃にパラグライダーという「遊び」をはじめた。
「正一郎、これは将来うけるで。」今でも覚えている。父は、目を輝かせながら私に言った。初期のパラグライダーは、スカイダイビングの四角いパラシュートに毛が生えたようなもので「こんなもんで空飛べるんかいな?」と、疑うようなものであった。確かに、ハンググライダーより簡単だ。ただ広げて走るだけで空を飛べる。ハンググライダーは、よく飛ぶ反面組み立てが面倒だ。私が色々考えてもしょうがないので、とりあえず父の言葉を信じて(!?)試験飛行を見に鳥取砂丘までいった。
最初、大人が四苦八苦しているのを見ていた。「やっぱり、こんなんで飛ぶわけないやん!飛ぶというより、落下しているのとちゃうの!」
そして、何でもやりたがりの私が挑戦するのであった。大人3人にサポートしてもらい、「走れ、走れ!」。空は澄みきっていて、目の前には日本海の水平線がぁーーと、思っていたら降りた。あっという間だったが、すごく気持ち良かった。
ついに飛行少年は空を体験してしまった。この日食べた鳥取砂丘のナシの味は忘れない。そして、いつか自由に大空を、、、
1991年高校卒業後、父のパラグライダースクールを手伝う。
1993年初めて大会に出場。
大会があった場所は、北海道の美幌峠。タスクは、セットタイムとターゲット。大会に出たきっかけは、自分の技術を試す為だった。このとき予想外に自分のレベルをおもいしらされたので、エリアに帰ってからさらに練習に励んだ。
1994年、恩師に出会う。
その人は、(有)アエロタクト代表の半谷貞夫さんだ。この出会いがなかったら世界選手権出場なんて考えられなかっただろう。毎年「JMB」のスクール系列のミーティングがあって、私はスクール代表として参加していた。あるとき、半谷さんに「世界の大会で活躍し、親父を超えろ!」と、信じられないことを言われた。その言葉はジョークではなかった。その後、常に最新の道具を提供し、国外での大会の参加するための援助、私に対して時間とお金を惜しまず育ててもらった。技術や知識の面では、半谷さんは勿論だが「扇澤郁さん」「小野寺さん」「田中美由喜さん」の最強メンバーに御指導してもらった。これだけ恵まれていれば怖いもの無しである。
さらに、自分が生活している兵庫県「岩屋山」では、父の経営するスクールを手伝うかたわら年中飛びのライバル(!?)「加藤豪くん」とも、飛ぶことができる。最初の方で、「スキーうまくなるためには、年中雪がある所にいないといけない。」と、書いた。そう、パラグライダーは通年できるのだからエリアにいて目的を持っていれば、上手くなる。そして、大会に出て自分の足りない所を見つけてまた練習すればいい。「良い師匠」がいて、「良い場所」で練習し、「良きライバル」がいて、「良いスポンサー」に援助してもらえれば完璧である。
<トレーニング>
前回のカステジョンの世界選手権には、サポートとして参加していた。大会に出場していた選手をサポートするなかで、「もし自分が選手だったら?」と、なんどもシュミレーションした。その世界は、想像していたものより過酷で国意識が強いものだった。2週間もの長い間、全てにおいてパーフェクトに近い状態で望み、飛べない時でも戦い、その長い間集団生活をし、悔いの無いように最終日を迎える、、、楽ではない。しかし、どの国も同じ条件で戦っている。なぜなら、みんな表彰台の高いところに国旗をあげる為に集まったのだから。
残念ながら、前回のカステジョンではそこまでいかなかった。「次こそは!」と、思って今回の出場権を取った。前回のサポートの経験を生かし、国としてチームとして世界選手権で全力を尽くせるように!出場までにどんなトレーニングをしたかというと、飛ぶことに関してはPWCほぼ全戦参戦。湖上での、マヌーバートレーニング。肉体トレーニングは、水泳。最初は50mしか泳げなかったが半年後には3,000m(クロール)出来るようになった。自転車は、エアロバイクをやったり、サイクリング車にのって山を上がったりした。余談だが、普段いる「岩屋山」がある町「青垣町」は、温水プールなどの施設が整っていておまけに町営なので安く利用することが出来る。
肉体トレーニングする理由は、メンタル面の改善に役立った。特に水泳は、もともとわたしは辛抱強くないのだが、長時間泳ぐことにより多少が我慢強くなった。自転車は、下り坂でのフルスピードがパラグライダーでフルアクセルしているスピードに近く、1km/sでも速くする為に上体の位置を考えたりペダルが空回りに近い回転にもかかわらず更にこいでスピードを出す。と、いった具合で世界選手権に出場する事も含め、良い結果が出るように努力した。
大会1ヶ月前には現地入りし、トレーニングコーチにはエリアを詳しく知っている「Mr,フランツ」をチームリーダーに紹介してもらい、毎朝のメテオブリーフィングに始まりタスクを設定しエリアについて色々聞いたりした。タスクは長い時で「160km」のタスクだったり、3000m級の山々を飛び越えていったり、、、一人では困難なタスクだが、チームとして飛び、無線交信で情報を交換し合い一人の力ではなくチームの力でこの困難なタスクをこなした。ただ飛んだだけでは練習にならない。いかにしてチームで動きそして良い結論を出すかが本番までの課題であった。
世界選手権は公に無線交信を許される戦いであり、個人の力は勿論チーム力を問われる場でもあるのだ。生活面でも、この協調性を持っていないと務まらない。
飛べない日には、筋力トレーニングなどをし、いつも本番の気分で望んだ。
<世界選手権出場>
1999年7月4日、最終選考に選ばれた。
何故この日に決まったのか?日本のポイントシステムの選考では選ばれているのだがチームリーダーが「No」と、言えば出場できない。みんな同じ条件でベストを尽くせる状態の者だけ、たとえそれが1人でも3人でも容赦無く選考するつもりだった。今回の優勝候補の一つ「スイス」や「フランス」は、もっと厳しい選考だったらしい。この日、選考されてから半谷さんと田中さんと私の3人でゴンドラに乗った時おもわず「ありがとうございます」と、言ったしまった。半谷さんは、「おめでとう」と、激励してくれた。選考されたからって浮かれている場合ではないけど、ついに世界選手権の土俵に立って戦うことが出来るのだ。あとは、精一杯飛んで世界選手権を楽しむ事。目標は、表彰台に皆で立つ。わくわくしながら大会初日を迎えた。
<世界選手権>
大会初日。何事も最初が肝心。まだこの時は余裕があって「初日は無難に飛んで次につなげよう」と、思っていたが、扇澤さんと川地さんが大活躍し「私は,何やっているのだ!」と、苛立ちをおぼえた。ちょっと、無難に飛びすぎたか、、、全体的に日本チームは、良いスタートを切れた。そして、まさかの悪天候。大会二日目、三日目と時間だけが過ぎていく中、明日への希望を見失わず、モチベーションを下げずに毎日過ごしてきたのにあんまりだ!くそ!関西調に言うならば「なんでやねん!」
そんなある日、去年のプレワールドでやった「タッチアンドゴー」のお遊びコンペティションをやった。今にも降出しそうな空の下で、出場各国男子2人、女子1人で日本チームは、「加藤豪くん」「神山和子さん」「わたし」が、選ばれなんと優勝賞金3,000シリング!(三万円ぐらい)で、トロフィーもあるそうだ。半谷さんは、お遊びでも真剣にするように一人1,000シリングの参加費を徴収し勝たなければ返さないという条件でそれに望んだ。真剣に飛べばなんとかなるだろう。なにせ、パラグライダー歴は長いのだし自分を信じて精一杯やれば幸運もついてくるだろう。
結果、世界の有名パイロットと戦ってただ一人だけのパーフェクト!「やった,優勝だ!」と、思ったのもつかの間。明日もするとの事。この日に至っては、チーム全員が盛り上がった。(と、おもう、、、)次の日は、最悪だった。小雨降る中、時間どうり集まった選手は4人。なにも、雨が降っているのにやらなくてもいいのに。しかも、昨日のポイントはクリアーと、言われがっかりした。「なんやそれ!」ですよ。しかし、これも修行の一つだった。「もしも、これが本戦だったら?しかも、最終日で優勝するかしないかの瀬戸際だったら?」それぐらいのプレッシャーがあった。そんなに大きなプレッシャーに生まれてこのかた会った事がない。結果、なんと「0点」だったけど、昨日には無かったプレッシャーを味わう事が出来てよかった。
応援してくれている日本チームは、がっかり。お遊びでも表彰台があったのに、、、
しかしながら、その日行われた表彰式にはトロフィーこそなかったが四位で表彰された。(四位でないかもしれない。ガンバッたで賞か、なにかか?)
気分を入れ替え本戦に望んだが、天候が悪いまま世界選手権は不成立になってしまった。チーム力は完璧だったし、個人のモチベーションも落とさずにいたのに、、、
世界選手権は不成立になったが、最終日に大会としてラストタスクをおこなった。初日のタスクでは国別5位だったので何とか3位入賞を狙ったのだが、もう少しのところでダメになってしまった。今回、扇澤さん川地さんは全てのタスクでダントツの飛びをしていた。比較すれば、私はたいしたことがない結果だった。もし、彼らのような飛びが出来ていたのならもっと良い結果が生まれたはずだ。その違いは、世界選手権で勝つ為の生活を2年間続けた結果なのだ。かたや私は、恥ずかしながら世界選手権で勝てるかな?そんな甘い考えだった。甘すぎた。そして、自分自身が悔しい。
<世界選手権を終えて>
今回、初参戦であった世界選手権はいともあっけなく幕を閉じてしまった。でも、良い経験が出来た。自分の甘さが結果として出たし、それを克服すべく方法を見つけ出すことが出来、次なる目標も定められた。次回の世界選手権では、表彰台を狙うしかない。もう、「失敗した。」なんてカッコの悪い事言いたくないな。
最後に、今まで応援してくれた全ての人にお礼を言いたい。
日本代表になる為には、どうしても個人の力では不可能です。半谷さんや父親の理解があって、彼らの周りの人にも理解してもらい、そしてさらに彼らの周りの人にも理解してもらった結果今日の自分が有ると、いう事を決して忘れず次も、その次も頑張ります。ありがとうございました。
[ホームへ] [インデックスへ]