太平洋を越えたTAK HomePage (98/09/06)


 今年の夏は、スクール創立以来、最低ぐらいスクール生(1日体験)が少なく、それでなくても幼な子をかかえて心配性のユカが、どうなっているのと心配する。オレはそのたび『大丈夫だ。暑いから来ないので、涼しくなったらいっぱい来る』と、大ミエをはるが、ユカはほんまかいやと言った顔をしていた。

 8月も末、9月に入ると平日も又忙しくなってきて、いい加減な予想は当たり、内心ホッとして『なぁ言った通りだろう』とユカに話す。風商売。字の通り吹けば飛ぶ。

 その日も、取っ手付けたハンドマイクを片手に講習場でイントラをしていると、仕事でアメリカ、シアトルへ行っている長沼さんが『YAA...!』とひょっこり横に立っている。手にみやげのポップコーン(電子レンジでチンするとパッとポップする)。ここ10年間なんとかスクールを軌道に乗せようとがんばるあまり、この土地に根がはえて、ついには、山ザルと化してしまっているオレは、ひさびさのアメリカにその箱をにおってみる。アメリカのニオイだ。

 そんな動きの変なオレを横目で『レオナルド・ダ・ビンチの詩は良かったよ』と長沼さん。アメリカでTAK HomePageを見ているのだと思うとうれしくなってしまったが、うれしさを無理に押さえて、『日本語訳は間違っていなかった。』と聞いてみる。『アメリカ人が訳したのだから、間違いはないでしょう。』と長沼さん。『それもそうだな。』とオレ。もううれしさを押さえきれず、『HomePage見てくれてるの!』と叫んでしまった。『いつも見ているから、アメリカにいてもTAKスクールの事はいろいろ知っている。なかなかいいPage』ヤッター! そうか、これがまさしくインターネットだ。オレも20代、30代はいろんな国へ行った。(今、正一郎がそうだけれど。)

 一番先に行って住んで働いたのが22才の時かろうじて大学を卒業させていただいた年。アメリカはシアトル(地元では発音がシアロとなり、シアトルと言っても通じなかった)ワシントン湖の湖岸には、大きな家も多く、庭先のレイクサイドから水上スキーがスタート出来たり、水上飛行機を庭先に置いた家もある。今でも住んでみたいところの一つ。ビル・ゲイツも今、大きな家を湖岸に建てている。

 シアトルはボーイング社の巨大な工場があり、そこのエンジニアだったパワーズ・ヘッド氏はジェット機に使っている航空機用アルミ板で、それまで木で出来ていたスキーをメタルにした。スポーツブランドHEADの創立者だ。

 オレは、シアトルにいた頃、このHEAD SKIを世界で一番売るスポーツ店で働いていた。スキーのバインディングを取り付ける仕事で、ワシントン州知事のskiにバインディングを取り付ける時、緊張のあまり、ドリルを貫通させてしまった。リペアのプラスチックのピンを入れて靴墨を塗ったことは、今も苦い思い出となっている。正直にあやまったら『OK.OK.』と言っていた。さすがアメリカ、心も広いと思った。突然の長沼さんの登場でオレのアメリカ青春がグラフィティとなってしまった。

 彼は、今は地元のグライダークラブに入って、毎週ソアリングしている。空港の航空管制圏があるので7000フィート(2100m)までの空域で楽しんでいる。

 アメリカでも読まれているTAK HomePageなので、これからは英語で書くかと言ったら、スクール生が口をそろえて『わたしら、わかりません。』と言う。今後も今まで通りのpageにするが、英語のかわりもっと落語をいれよう〜と。


パワーズ・ヘッド氏
ヘッドスキー社長 パワーズ・ヘッド氏と

[ホームへ] [思いつきへ]