日本を出発


尾崎隆さんと
トレッキング中の尾崎隆さん(左)と著者
テスト飛行
テスト飛行
トレッキング中
4,000mから見た、カンチェンジュンガ
日本テレビクルーと
日本テレビクルーとベースキャンプで

 1984年2月28日。日本を出発。約2週間、高度順化をしながら5,500mのべ一スキャンプにたどりつく。途中4,700m地点で、練習機を使って飛行中、上昇気流をつかみ、ジェット気流の吹き荒れるカンチェンジュンガの山を上空から見た時、あまりの迫力に圧倒されて、正直な話このまま日本にしっぽを巻いて帰ろうかと考えたくらい。

 現地に入ると体重はどんどん減ってゆく。これは低酸素で生活していると、まず体の脂肪がエネルギーとなり、脂肪がなくなると筋肉をエネルギーにしてゆくのである。毎日山歩きしているのに、体つきはヨガの行者のようになる。もともとやせている人は、おなかと背中がぺったんこ。肋骨はオートバイのエンジンのようになる。オーバーヒートしなくて良いと思う。たびたびヒマラヤ登山をする人の中で、かなり丸々と太っている人がいるが、10kg以上はやせるので、このぐらいがちょうど良いと言っている人は、まんざらホラでもなさそうである。カンチェンジュンガの山ふところに入ると、やせてゆく体とは逆に、闘志がみなぎってくる。ともかく高地順化に成功すること一番大切なことだ。

 日本テレビは、10名近いスタッフをこの山に送り込んできているので、本番前に体調をくずして山を降りるなんて絶対に出来ない。4月に入り、登山隊の中にも体調をくずして降りてゆく隊員も出てきている。6,000m、7,000mと高度順化のスケジュールをこなしてゆく。

 夜、眠っている時なんて、酸欠の金魚のように、夢の中で、少ない酸素を求めてパクパクとし、ハッと目が覚めることもしばしば。5月に入り、天候も落着いてきた。いよいよ決行の日が近い。

 5月11日朝8時、スタート予定地点めざして歩きはじめる。標高差にして500mぐらいだが、7,000mを越していると、三歩あるいては呼吸を整えるといったペースになるので、なかなかはかどらない。7,850mのテイク・オフ(離陸)ポイントに着いたのは、夜7時をすぎていた。冷えきった足を温めなければすぐに凍傷になってしまう。シェルパのアンツェリンが、俺の登山グツをぬがして、足先をもんでくれる。彼はエベレスト山頂にも立っている優秀なシェルパで、今回のハング飛行にすごく協力的だ。日本テレビの中村進さんは、北極点、チョモランマ(中国側エベレスト)にもテレビカメラを持ち込んだ実績があり、今回のアメリカの練習からずっとフィルムを回してくれているので、ハングの事はすごく詳しい。登山隊の寺本さんは、一番最初に会った時「俺は山登りに行くので、ハングなんか知らないよ」と言っていたが、なぜか彼が一番に協力してくれている。それから、マッキンレーで行方不明になっている植村直己さんの後輩、明治大学の北村君。みんな明日に予定されるネパール、ヒマラヤ登山史上初めての、ハング飛行の為、7,850mに集結した。決行前夜なにを食べたのか、忘れた。プロカメラマンの中村進さんは、明日使う自分のVTRカメラと、俺の機体に取り付けるVTRカメラを自分の寝袋の中に入れて、バッテリーが冷えないように、だいている。さすがプロフェッショナルだ。8,000m近い高度では、すべてが惰性になる中で、なかなか出来ることではない。

 俺は酸素を吸って寝る。ぐっすりと眠る。なんかエロチックな夢を見る。メキシコの娘が夢の中に出てくる。短足ずん胴とスマートなのと二人出てくる。何を食べたのかはすっかり忘れているのに、この夢のシーンは不思議とはっきり覚えている。目をさます。時計を見ると朝4時30分。ボーッとした頭で、ゆうべの夢はなんだったんだろうと想ってみると不覚にも、ひさびさの酸素で体のすみずみまで血のめぐりが良くなり、夢精をしてしまったのだ。日本を出て70日目の事である。これは、縁起の良い事で、飛ぶ前にすでに飛んでいる。これも、かくれた世界記録。

 寝袋をぬけ出し、外に飛び出す。すごい快晴。遠くエベレストからインドの方まで、地平線。どこを見ても雲がない。風は弱い吹き下しの、谷風が吹いている。こんなチャンスは2度ない。よし!決定だ。狩野隊長、日本テレビの岩下さん、重広さんへと無線で本日決行を伝えてゆく。アンツェリンと5人のシェルパは、すでに翼長11mのHIMALAYAN TAKが広げられるスペースを作ってくれている。北村君が大好物のモチをやいてくれている。5個も食べる。いよいよ、翼の組立だ。



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