富士山フライトチャレンジ
Himarayan TAK

1984年5月日本山岳会80周年記念カンチェンジュンガ縦走登山、標高7850mからハンググライダー飛行を達成してからすでに21年の歳月が流れた。

ヒマラヤ飛行の年2月、アメリカへ飛行練習に行く飛行機の中で冒険家植村直己氏がアラスカのマッキンリーで消えたニュースを知った。
1970年エベレストスキー探検隊に参加の折に登山ルートで何度もすれ違ったシーンを思い出した。
この年のエベレストで植村さんは日本人で初めて山頂に立ち三浦先生はスキー滑降に成功、TAKは参加しただけだった。

翌年、アラスカで偶然ハンググライダーに遭遇して空を飛ぶ魅力に取り付かれた。いずれヒマラヤをと練習してハングの高高度記録を樹立したフランス人登山家ボアバンの記録を更新した。
その彼もベネゼイラのエンゼルフォールで帰らぬ人になった。ゾクゾクするぐらい面白い冒険の世界はハイリスクでもあった。冒険の世界にピリオド。

翼一つで誰でも手軽に空を飛べるパラグライダーの出現で空を飛ぶ喜びを教えるスクールを始めて毎日レッスンに明け暮れる20年、気が付けば60歳の還暦を迎える年になっていた。
昨年の11月、朝霧高原JPA主催の大会で超軽量パラグライダーYetiで新雪を被った富士山を見ながらフライトした。

富士山は1980年、83年の二回ハンググライダー飛行をしていたが心残りなことがあった。それは前装備40kgの重い道具をを自分一人の力で担いで上げていないこと。



たった7kgの翼で閃いた!


これで新しい冒険の旅に出れる予感がした。

還暦を3ヶ月後に控えた寒い冬の日が続いてた頃、本当に自分がしたかったことはスクールだったのか?もう一度何かにチャレンジしてみたい。心の底から叫ぶもう一人の自分に素直に行動を起こした。
それは自分の力で富士山頂までパラグライダーを担ぎ上げてフライトする計画だった。
それをするには20年間に錆付いた身体を鍛え直すことだった。
毎朝、Yetiを担いでスクール出て標高差500mを登り翼を広げて飛び、着陸して出勤の生活が始まった。

登山と違って飛ぶ楽しみがあるので面白くトレーニングが出来た。梅雨の時期も過ぎる頃にはかなり身体も出来てきて体重も6kg減り、ちょっとスリムになった紅の豚?状態。

そんなある日、富士山頂に鎮座する浅間神社1200年祭りが来年であることを知って驚いた。その前年にフライトするに相応しい心技体を目標にさらにトレーニングに気合が入った。

最初に富士山を飛行した日は梅雨明け一番を狙った7月27日だったが風が強く雲海もあった経験から一週間後の8月2日を予定した。


7月31日、夕方までスクールでレッスンをしてから新幹線で新富士まで移動して駅前ホテルに一泊。仲間と合流して富士宮観光協会にご挨拶してから境内に滾々と富士山の水が湧く湧玉の池を見ながら浅間神社へお参りに行った。本殿でのご祈祷には紅白の着物を着た若くてスマートでチャーミングな巫女が安全祈願の舞いをしてくれた。なんとも清清しい気分になり意気揚々でした。

富士宮警察、消防には地元ネイチャーランド中村さんが計画書を提出してくれた。
ヒマラヤ飛行で2時間のTV番組を制作してくれたAlpine Video Artist中村進さんも合流して夜は河口湖へ中華料理を食べに行った。
前祝にヒマラヤ飛行の際に食べた北京ダッグを皆さんにご馳走した。北京タックのギャグを言いたくて注文したようなもんです。

帰りに立ち寄ったコンビニ、夏休み合宿中の大勢の学生に出会った。まさかそこの鳴沢スポーツ公園にLandingするとはその時は予想すらしてなかった。その夜は朝霧高原の大地主、竹川さんの野外活動センターふもとっぱらに泊まった。
なんと20haもの広大な土地で熱気球の大会も出来るぐらいの広さ。

朝5時に起床して新富士五合目まで上がった。
午前7時半、大阪から応援に駆けつけてくれたスクールの皆さんと今回のイベントをバックアップしてくれたアエロタクト社長半谷さんに見送られて出発。
中村進さんは学生時代に富士山の荷揚げバイトで40kgを担ぎ往復したそうで下りは1時間で下山したと話していた。
日本パラグライダー協会理事の長島信一さんは今回、広報担当で写真とレポートを担当。買ったばかりのデジカメで撮影開始、背中には10kgのパラグライダーを担いでいる。いつもはワールドカップで世界を飛び回る正一郎は初めての富士登山、今回はビデオ担当の曽我部さんとタンデムでフライトする。

途中では何度か雨が降りパラザックを担いだまま頭からスッポリとポンチョを羽織った。雨降りの中でもビデオカメラマン中村さんは撮影をする。
12時に山頂に到着、パラザックを担いで4時間で登ったのは満足のタイム。

今までの富士山パラ飛行は荷揚げのブルで機体を運びブル道からフライトしたそうでそのブル道のTake offポイントを見て唖然とした。とても安全に離陸出来る環境ではない。二年前、ブルで荷揚げしたパラでブル道からフライトした方が風で煽られて大怪我。ブルで搬送したのでブルの会社はもう二度とパラは乗せないと言っていた。

80年、83年のハング飛行は剣が峰からの稜線したの鞍部からTake offしたので見に行った。25年経っても何も変わっていなかった。
大きな岩もなく綺麗なスロープ状態なので気持ちが落ち着く環境なので気に入ってる。Take off場所を決めて御鉢周りを一周、5000mまでの高さの入道雲が手の届く高さでモクモク。今日は夕方になってもフライトは難しいと判断して山頂の山小屋を予約。



夕方、Take offの整備に行ったら工事現場のお兄さんが声をかけてきた。「明日は5時からヘリが飛びます」と教えてくれた。こちらも5時過ぎから準備することをパイロットに伝えてもらった

山頂小屋に戻り中村進さんとノンちゃんの下山を見送る。1時間で下山する進さんにノンちゃんは着いていけるか不安だった。
暗闇迫る中、必死に進さんに着いて下山したノンちゃんは1時間半で五合目と驚異的なタイムを樹立。進さんが「ヒマラヤ遠征の荷揚げで使えます」と太鼓判。三日経っても膝がカクカクして歩いているノンちゃんでした。


山頂小屋の朝は早い4:45の御来光を見るので4:30にはチェックアウトだ。
山頂から見る日本の夜明けは荘厳な気持ちになります。御来光を見てから剣が峰の急な坂道をYeti担いで登りTake offポイントに到着。
準備に入る。GPSは朝霧アリーナへナビゲーションしていたが、もちや(ドライブイン)へ変更した。
しかし、 朝霧高原は雲海で見えない。

Yetiの翼を広げて風を待つと今まで追い風が向かい風に変化、ラッキーなタイミング。朝霧は地上まで霧がかかってると半谷さんの無線、荷揚げのヘリが爆音を上げて上昇してくるが風に身体が反応して反射的に離陸した。

ふぁ〜と浮いた瞬間、言葉では表現できない感動でした。山頂で荷物をぶら提げたへりが富士山を離れたと思ったら斜面スレスレに急降下して行ってくれた(本来ならヘリの飛行コースの上をパラグライダー飛んでいたから)。ヘリのパイロットがこちらを見て「Good Luck!」と言ったような気がしたくらいでした。中部日本航空のパイロットの方ありがとうございました。

後ろで歓声が上がったので山頂を振り返るとタンデムが離陸、あっと言う間に真横に来た。
曽我部さんがビデオで撮影している。正一郎は「親父、何処に下りるんや!」と大声で叫ぶ。
見渡す限り高度2000mは雲海の下。
離陸の瞬間に決定してのは山梨方面。北京ダックを食べた河口湖がクリアーに見えていた。

無線交信が地上の半谷さんと上手くいかないのでタンデムでビデオ撮影している曽我部さんが苦戦していたので胸の無線ケースからケイタイを出して「もしもし半谷さん」「え!!タックさん驚き〜」で状況を説明しながら飛行。GPSの対地スピードは51km/h、南風に乗って相当に速い。天神スキー場上空を通過して河口湖が見えてきた。「天神スキー場に降りれないか?」と半谷さんのケイタイ。
南風にUターンしたら6km/h、「半谷さん無理です。河口湖手前に大きなサッカー場がありますのでそこに降ります。」。タンデム機も長島さんのアルファー3も着陸態勢に入った。
2000m高度は朝霧からの霧が津波のように押し寄せてくるので3機ともスパイラルで高度処理。余裕の有視界飛行で着陸。


三日間の暑い熱いドラマが終わった。吉川さんがプレゼントしてくれたシャンペンのコルクは天高く飛びシャンペンが噴水のように吹き出た。
朝6:30に飲む冷たいシャンペンはたとえようのない旨さでした。

ヒデキ感激!タック還暦!で始めた還暦記念富士山パラグライダー飛行は多くの
皆さん応援とサポートで無事終了いたしました。
60歳でも強く生きる自信と勇気を取り戻すことが出来ました。もし出来ることならチョモランマ山頂からのパラグライダー飛行とそのライブ中継を、夢に向かって進みたい思います。
今回の映像はAlpine Video Artist中村進さんが編集しますので期待して下さい。


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